チャーリー・チャップリン
ちゃーりーちゃっプりん
プロフィール
生年月日: 1889/04/16
性別: 男性
出身地: イギリス/ロンドン・ウォルワース
身長: 165センチ
職業: 役者
その他:
本名はCharles Spencer Chaplin。ミュージックホールの芸人だったフランス系イギリス人の父チャールズ・チャップリンと母ハンナ・ヒルのもとに生まれるが、1歳の時に父親は蒸発し、母親に育てられる。母親が健康を害し歌えなくなったのを機に、5歳で初舞台を踏むが、7歳の時に貧困と病が原因で母親が発狂したため病院に収容されてしまい、兄と共に孤児院に預けられる。その後、8歳頃からミュージカル劇団に入団し巡業に参加し、17歳でボードビル劇団フレッド・カルノ一座で本格的な俳優業を始めやがて一座の看板役者となる。巡業先のアメリカで、キーストン社のマック・セネットの目に留まった彼は13年に同社と契約、ハリウッドへ渡る。翌年「成功争ひ」(14)で映画デビューを飾り、後のトレードマークとなるだぶだぶズボンにドタ靴、ちょび髭、山高帽にステッキを持った姿で「ヴェニスのベビー・カー競争」(14)に出演、有名な浮浪者スタイルを完成させる。同年、「チャップリンの総理大臣」で初めて監督業にも進出して、1年間で35本の短編に出演。翌年10倍の週給でエッサネイ社に移籍し、ミューチュアル社に移籍した16年には大スターとなっていた。初の長編映画「キッド」(21)など、ドラマ性を重視したスラップスティックなドタバタ喜劇が人気を呼び、25年に製作された「黄金狂時代」はチャップリンの最高傑作と言われるほどの評判を得る。これらの作品は、俳優のダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、監督のD・W・グリフィスらと共に、大手の映画スタジオの制約に縛られない自由な映画製作の場を求めて19年に設立した「ユナイテッド・アーティスツ社(UA)」の製作。31年、トーキーの波が押し寄せる中、製作されたサイレント作品「街の灯」は、盲目の少女との恋を悲しくも暖かに描き世界中で大ヒットとなるが、さすがの彼も時代の流れに逆らうことが出来ず、資本主義を風刺した最後のサイレント映画「モダン・タイムズ」(36)で初めて自分の声を披露、即興の言葉で歌って、世界中をその声で驚かせる。40年には初のオール・トーキー映画「チャップリンの独裁者」を発表。ラストシーンでヒットラー率いるナチスを痛烈に非難するスピーチを行う。ハリウッドの“赤狩り”に巻き込まれた彼は、52年に老芸人と若きバレリーナの交流を切なく描いた傑作「ライムライト」を発表後、家族と共にスイスに移住した。67年にはマーロン・ブランドとソフィア・ローレンを主演に迎えた最後の監督作「伯爵夫人」を発表。52年に1度封切られながら全米のボイコット運動から上映を果たさなかった「ライムライト」が、改めてアメリカで公開される。翌72年にはアカデミー音楽賞と特別賞贈呈のためニューヨークとハリウッドに招かれ、アメリカとの和解が実現した。75年にはイギリス政府からサーの称号が授与され、64年に自叙伝を出版。77年のクリスマスの日、スイス・ヴヴェイで家族に囲まれて安らかに永眠した。享年88歳だった。プライベートでは4度結婚し、11人の子供をもうけたが、54歳の時再婚した最後の妻、ウーナ・オニール(ノーベル賞作家ユージン・オニールの娘)は18歳だった。映画史上最も偉大な喜劇王にして、不世出の映画作家。
性別: 男性
出身地: イギリス/ロンドン・ウォルワース
身長: 165センチ
職業: 役者
その他:
本名はCharles Spencer Chaplin。ミュージックホールの芸人だったフランス系イギリス人の父チャールズ・チャップリンと母ハンナ・ヒルのもとに生まれるが、1歳の時に父親は蒸発し、母親に育てられる。母親が健康を害し歌えなくなったのを機に、5歳で初舞台を踏むが、7歳の時に貧困と病が原因で母親が発狂したため病院に収容されてしまい、兄と共に孤児院に預けられる。その後、8歳頃からミュージカル劇団に入団し巡業に参加し、17歳でボードビル劇団フレッド・カルノ一座で本格的な俳優業を始めやがて一座の看板役者となる。巡業先のアメリカで、キーストン社のマック・セネットの目に留まった彼は13年に同社と契約、ハリウッドへ渡る。翌年「成功争ひ」(14)で映画デビューを飾り、後のトレードマークとなるだぶだぶズボンにドタ靴、ちょび髭、山高帽にステッキを持った姿で「ヴェニスのベビー・カー競争」(14)に出演、有名な浮浪者スタイルを完成させる。同年、「チャップリンの総理大臣」で初めて監督業にも進出して、1年間で35本の短編に出演。翌年10倍の週給でエッサネイ社に移籍し、ミューチュアル社に移籍した16年には大スターとなっていた。初の長編映画「キッド」(21)など、ドラマ性を重視したスラップスティックなドタバタ喜劇が人気を呼び、25年に製作された「黄金狂時代」はチャップリンの最高傑作と言われるほどの評判を得る。これらの作品は、俳優のダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、監督のD・W・グリフィスらと共に、大手の映画スタジオの制約に縛られない自由な映画製作の場を求めて19年に設立した「ユナイテッド・アーティスツ社(UA)」の製作。31年、トーキーの波が押し寄せる中、製作されたサイレント作品「街の灯」は、盲目の少女との恋を悲しくも暖かに描き世界中で大ヒットとなるが、さすがの彼も時代の流れに逆らうことが出来ず、資本主義を風刺した最後のサイレント映画「モダン・タイムズ」(36)で初めて自分の声を披露、即興の言葉で歌って、世界中をその声で驚かせる。40年には初のオール・トーキー映画「チャップリンの独裁者」を発表。ラストシーンでヒットラー率いるナチスを痛烈に非難するスピーチを行う。ハリウッドの“赤狩り”に巻き込まれた彼は、52年に老芸人と若きバレリーナの交流を切なく描いた傑作「ライムライト」を発表後、家族と共にスイスに移住した。67年にはマーロン・ブランドとソフィア・ローレンを主演に迎えた最後の監督作「伯爵夫人」を発表。52年に1度封切られながら全米のボイコット運動から上映を果たさなかった「ライムライト」が、改めてアメリカで公開される。翌72年にはアカデミー音楽賞と特別賞贈呈のためニューヨークとハリウッドに招かれ、アメリカとの和解が実現した。75年にはイギリス政府からサーの称号が授与され、64年に自叙伝を出版。77年のクリスマスの日、スイス・ヴヴェイで家族に囲まれて安らかに永眠した。享年88歳だった。プライベートでは4度結婚し、11人の子供をもうけたが、54歳の時再婚した最後の妻、ウーナ・オニール(ノーベル賞作家ユージン・オニールの娘)は18歳だった。映画史上最も偉大な喜劇王にして、不世出の映画作家。
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